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今から丁度480年前、天文5年、大阪堺の港から親子4人連れの一行が、種子島を目指し、
船出しました。
父親は八板金兵衛と云い、母親はカメ、長女は若狭12才、長男の清賀6才の4人でした。
八板金兵衛清定は、濃州(今の岐阜県関市)の出身で、京都本能寺の御用達の有名な刀鍛冶
でした。
金兵衛は、仏教法華宗の信徒でしたが、当時は日蓮宗との仏門の争いに破れ、遠島(しまなが
し)を命じられ、種子島に流される破目になったのです。
金兵衛は、種子島で生まれた人とばかり私は子供の頃から思っていましたが、そうでは
なかった訳です。
堺の港を出た船は、瀬戸内海を通り、関門海峡を渡り、博多の港に立ち寄り、更に長崎から
有明海を通り、天草から甑島の下島に着きます。そこで一度船を降り、種子島行きの船が
来るのを待ち、山川港に立ち寄り、約6ヶ月近くかけて、種子島に辿り着くのです。この間、
各地で1ヶ月から2ヶ月も滞在したりしての船旅でした。現代では、飛行機なら1日で来れます
ので、文明の発達には驚かざるを得ません。
一行が長い船旅を終え、種子島に辿り着いたのは、8月の半ば、眞夏の日がじりじり
照りつける日の午後のことでした。
当時の種子島の殿様は、時尭(ときたか)という人で、種子島の人口は約7,000人
であったと記されています。殿様は金兵衛一行を種子島家の菩提寺である本源寺(今の市役所の
横にある)に招き入れました。ここに2~3日滞在したのち、今の東町の黒山尻(くろやまじ
り)に屋敷を与えられ、それ以来、種子島家の刀鍛冶として働くことになりました。
金兵衛は、殿様の為に一生懸命働き、多くの弟子も抱え、故郷の美濃の国(岐阜)へ
帰れる日を夢見ていましたが、種子島についてから7年経った天文12年(1543年)、
南種子の門倉岬に2人のポルトガル人をのせた中国船が台風に遭い、漂着しました。
種子島の殿は、彼らが持っていた鉄砲を高額(今のお金で3,000万円とも云わる)で
買い取りました。そして、金兵衛に鉄砲の製作を命じますが、火縄銃の底にあるラセン状の
ネジがどうしても解らず、ポルトガル人の船長メンデスピントに娘若狭を差し出すことを条件に
火縄銃が完成しました。
ところが、若狭には、笹川小四郎という火薬を作っていた恋人がいました。若狭は泣く泣く
恋人と別れ、父親の為にと、赤尾木の港(今の高速船の発着するところ)をメンデスピントに
連れられ、種子島を離れるという、悲恋物語が種子島にずっと伝わって来ています。
岐阜県関市では、八板金兵衛はわが郷里の誇りであると、史実を掘り起こし、関音楽劇の
会の人々が、「海波の音」というオペラに仕立て、今年2月、関市文化会館で上映され、
大変な好評を得ました。
次は種子島で公演したいとの申し出があり、今年8月、鉄砲祭りの前夜祭の昼間に
西之表市民会館で開演されることが決まりました。
皆さんも是非、鑑賞していただきたいと思います。大型連休も終わりましたが、
梅雨が間近に控え、そのあとには暑い夏がやって来ます。
体には気を付けて今月も頑張りましょう。よろしくお願い申し上げます。
(徳永健生 著「たまゆらの海」より抜粋)
医療法人純青会 せいざん病院
理事長 田上 容正