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今日は、市内小学校で入学式が一斉に行われました。お昼すぎに、母親に連れられ、自宅に
帰る新入児が、横断歩道を黄色の旗を振りながら渡って行く姿に遭遇しました。
邪心のない眞白な心で、これからの人生に希望をもって生きようとする姿に接し、感動して
眺めることでした。
ところで皆さんには、まだ、関係ないでしょうが、私にとっては大きな問題と云いましょうか、
人生の課題が残されているのです。それは、死に際にどんな言葉を残そうかという問題なのです。
ロシアの文豪トルストイは、晩年奥さんと仲違いになり、家を出て、ロシアの片田舎の小さな
駅の駅長さんの家で亡くなりましたが、最后に残した言葉は「自分もこれでお終いか。もうどうでもいいんだ」という言葉だったそうです。
音楽家のベートーベンは死の床にあった時は、全身にむくみがあったそうです。当時は、
ワインがむくみに効果があると云われていましたが、友人が御見舞に持って来て呉れたワインを
見て「残念だが遅かったよ」と云ったということです。
ドイツの詩人・作家であった、ゲーテは家族に看取られながら「もっと光を」と云って死んで
いきました。
放射能のラジウムの研究で有名なフランスの物理学者キューリー婦人の最后の言葉は
「もう結構です。そっとしておいて下さい」で、静かに息を引き取りました。
日本人の中で一番私が好きな死に際の言葉は、秋山眞之(あきやま さねゆき)という日本海軍
軍人の言葉で「皆さん大変お世話になりました。これから先は一人で行けますから」という言葉です。
秋山眞之という人は、愛媛県松山の出身で、同窓生に俳人・歌人として有名な正岡子規が
います。2人とも松山中学の秀才で、東京大学の前身である大学予備門に入学しますが、秋山は
途中で方向転換し、大学予備門を中途退学して、海軍兵学校に入りました。卒業后は、日本海軍
の軍人として活躍し、日露戦争の時には参謀として、鹿児島出身の東郷平八郎を助け、
当時世界一と云われたロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争の勝利を日本にもたらしました。
「敵艦見ユトノ報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動ス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という
有名な電文を起草したのも、この秋山眞之であったと云われています。
人間は何時、どのようにして死ぬのか、全く見当はつきません。親父はいい時に死んで呉れ
たなと思われるような死に方がしたいです。そして、その時、どんな言葉を残したらよいのか、
そろそろ考えておかなければならない年齢になったと実感しています。
「せいざん病院」は新築移転して早3年が経ちました。皆さんの働きのお陰で、やっと光が
見えて参りました。仕事も人間関係も大変でしょうが、ここで気を緩めることなく、
これからの一年も頑張って行きたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
(司馬遼太郎著「坂の上の雲」より抜粋)
医療法人純青会 せいざん病院
理事長 田上 容正