朝礼訓辞

平成27年8月 朝礼訓辞

 昭和20年8月15日、日本は太平洋戦争に負けました。あれから丁度70年が経ちます。
私はその年、国民学校(今の小学校)4年生で10才でした。ですから、今年80才になります。
 今、戦争の悲惨さがテレビや新聞で盛んに報道され、良識ある人々が戦争を知らない人々に
訴え続けています。
 終戦の年をはさんだ、昭和19年、20年、21年この3年間に日本に住んでいた人の苦しみや
惨めさは言葉に云い表せません。食べものはなく、衣類もなく、履くものもありませんでした。
私もずっと裸足で学校に通い、弁当は唐芋だけ、唐芋がない人は、大豆粕(かす)を弁当箱に
入れ、教室の片隅で人に見られないように隠れて食べていました。着る物は毎日同じもので、
臭くなるまで着換えるものもありません。下着の破れを履いていた女の子は、身体検査を
受けるのが恥ずかしくて、早退して家に帰りました。

 野坂昭如(あきゆき)という作家が「火垂るの墓」という小説を書き、昭和41年に直木賞を
受賞しました。映画になったり、アニメになったり、漫画に書かれたりして、皆さんの中にも
きっと読まれた人が沢山居られると思います。
 14才になる清(せい)太(た)という少年と、4才になる妹、節子(せつこ)の兄妹が、
つたなくも懸命に生きようとした姿が描かれていて、ついに最后は2人とも栄養失調で
死んで行く物語です。

 父は軍人でしたが、戦死します。母は神戸の大空襲で焼け死んでしまいます。幼い2人は
親戚の家に転がり込みますが、叔母さんにいじめられ、家を出て川のほとりの防空壕の中で
暮らし始めたのでした。
 食料は配給制で、ほんの少しの米しか貰えず、お母さんが残した着物などを持って農家に
行き、米や野菜に換えて貰い生活していましたが、更に事情が悪くなり、栄養失調は
どんどん進んで行きます。
 川のタニシや蛙を食べたり、空襲警報が鳴り響く合間、清太は農家の畑に行き、トマトや
キューリを盗んできては、飢えをしのぎます。電燈もなく、夜は川辺の蛍を100匹ぐらい
つかまえて、蚊帳の中に放ち、部屋を明るくしますが、翌朝は殆どの蛍は死んでいました。
明くる朝、節子は蛍の墓を作ってやりました。 下痢が続き、虱(しらみ)が湧き、疥癬が
体中に出来、8月22日、清太が外から帰ってきたら、節子は誰にも看取られず息を引き取って
いました。

 市役所に行き、火葬を頼みますが、死者が多くていつになるか解らないということで、
清太はお寺の片隅で、妹節子の小さな体を枯木にのせ火をつけ、火葬しました。
焼け残った小さな妹節子の骨と灰を、ドロップの缶に入れ、それ以来ずっと持ち歩くのでした。
 いつの間にか、清太も戦争孤児となり、それから暫くして神戸の三宮駅構内で、9月22日
栄養失調で死んで行きました。
清太の遺体を片付けていた駅員が、清太のポケットから出て来たドロップの缶を近くの
原っぱに投げ棄てました。錆び付いた蓋(ふた)がはじけ飛び、中から節子の小さな骨が
ころがり出ました。
 その時、20~30匹の蛍が一斉に大空に向かって飛び立ちました。清太と節子は蛍と共に
お父さん、お母さんの待っている天国へと旅立ったのでした。
 この本のあとがきに野坂昭如は「君たちの生まれる前に戦争があった。たくさんの人が
死んだ。そして日本は二度と戦争をしない、と決めた」と云っています。

政府は今、集団的自衛権という名を形を変えて、解釈し、今や日本は戦争に向かっている
ような気がします。戦争は自分が殺されるか、相手を殺すか、それ以外の何物でもありません。
絶対に戦争だけはしてはなりません。戦後70年の今年の夏、そのことを決意する夏にしたい
ものです。

野坂 昭如 著
「火垂るの墓」より

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